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大学院授業「震災復興と建築」

後期は設計課題が中心で、

それ以外は、大学の仕事と名古屋の若手の仕事、いただいている研究費での研究、設計、私生活と、めまぐるしい日常を過ごしています。

こんなに個人の時間ないのか...と。いやでも全部自分の時間なんだけど。

さてさて、そんな中、座学も少ししています。

今回は大学院の3コマの授業の紹介。

テーマは、「震災復興と建築」。これはきっと、僕の原点です。まずはアーキエイドから今に至る、お話をしました。

ここで備忘録を兼ねて、1回しかあったことはないけど、三重で活躍する、素晴らしいまちづくりのプレーヤーの言葉をFBから。


「力一杯頑張り続けるなんて無理。

経年劣化的なのが、いいんです。 朽ちることすら美しい。みたいな。

当事者意識を持ってとか無理。 誰もがリーダーになれるわけではないし、 誰も苦しくキツいことなど望んでやりたくない。 手を取り合ってとか そんなの面倒くさい。 そんなの無理って人の方が 田舎には圧倒的に多い。

楽しく住み続ければ良いんですよ。 好きな人がいて 好きな仲間がいて 美味しいものがあって 墓もあって 不便でもたまに良い街だねって言ってもらえて それでもう最高じゃないですか。

まだ地域活性とか地方創生とか 地域をクリエイティブだとか イノベーションだなんだとか言ってる。 もーそーゆーの頑張ってやらなくても 良いんだってば。 使命などないし ましてや責任などあるわけない。 背負ってない。

ただ好きでやってるだけ。 片思いみたいなものです。」


きっと、僕と石巻の関係は僕の片思い。

そんな想いのお話をして、

次の授業では、学生が発表。まずは2011-2014くらいの、災害復旧から復興フェーズで建築が挑戦していたことの勉強。


みんなの家ってなんだろう?

集まる場所の造り方って?

非日常の住環境って?


そんな議題で発表をもらいました。学生の発表は、自分への対話。その中で自分でもしっくりきたことをメモします。

「被災地復興の特に最初の時期、必要とされていたのは建築作品ではなく、ともに歩んでいる人。作品としての強度の重要性は多分きっとみんなが理解している。でも、そうじゃない、不完全でも、一緒に、未来を、ともに歩いていくことの重要性が示されたのではないか。そして、それはきっと、震災以降の社会が求めているものではないのか。同時に、作品としての強さがあるものは絶対に必要。そうじゃない選択肢に必要性が生まれたのは、きっとこの大きな経験からの学びなのではないか。」

そんな話をしました。


11月初頭、恩師の一人の建築家・栗生明さんが名古屋にお越しになり、レクチャーいただく機会が。その後の懇親会でおっしゃっていた言葉が非常に印象的で。 「来年でバウハウス100年。その一方で、バウハウス教育から抜け落ちてきたことが現代社会で評価されているし、それは結局必要なことなんじゃないか。それはまちづくりであり、リノベーションであり、コンバージョンであるのかもしれない。」


どこかですごく繋がっている。ちょっとずつ、思考面でも蓄積されてきています。

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