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西口さんの大地の家を見て。

  • nobusato
  • 2022年6月6日
  • 読了時間: 3分

大地の家。それは、物事の本質とは何かを問う、優しい建築であった。


ーー


建築家の仕事とはなんなのだろうか。

建築士の仕事はおそらく、

「施主のニーズをきちんと捉え、建築的知識で、物質化する。」

ということなのだろう。

では、建築士が上記の職能を示すものであれば、建築家とはなんなのか。


職能としての建築士は、現代社会への問も必要なければ、施主に対して新たな視点を提供する必要性もない。

でも、では、建築家は、請け仕事なのだろうか?

その答えは、当然、NOであってほしい。

既存の建築家の仕事の多くは、産業構造に組み込まれている側面が拭えない。


物質化するスキルに由来する仕事であるのは重々承知なのだが、

そうではないあり方を模索してく必要があると思う。

建築は資本との連関が強すぎるのかもしれない。

資本との連関を上手に解くと、確かに請け仕事ととしての建築設計は増えていくのだろう。

他方、人間社会に必要なものは何か、というような、

そんな大きな問いを続けている不器用な建築家に出会うと、どうしても心が踊ってしまう。


建築家とは、建築士の資格を有した人間を指す名称ではなく、

物事のあり方を問うたり、現代社会を次なるフェーズに運ぶヒントをくれる存在なのだろう。


ーー


そもそもの物質としての建築のあり方を疑い、

現代社会の建築をめぐる生産システムの新しいあり方を探し、

訪れた人々に、建築とは何かを問いただす。


そんな、小さき、それでも言葉の多い建築に出会った。

作者は西口賢。

モノの理を問いただす、やわらかい表現者であった。


ーー

大地の家は、物事の本質はどこにあるのかを、的確に、そして、丁寧に突いてくる。

・庭と家の距離は何が適切なのか

・生きる、ないしは死ぬ時、何とともにあるのが、悔いのない世界なのか

・身の回りに自然物があることとは

・四季の移ろいの隣にあるものとは

・必要なものは全てつくる

…etc


色々と書くことはできるが、どれも不十分。

でも、どれも、「心地よい」「こうありたい」にむけた言葉であることに気づく。

施主がいて設計するという関係だと、物事の快適性や本質性を問い続けることは難しい。

だから、利便性を確保する形で業務を進めることになるし、それはそれで正しい。

でも、この住宅の全てが、そうした利便性には目もくれず、本質と快適に振り切っていた点に激しく心が揺さぶられた。

長い人間生活の営みを振り返ると、それがおそらく人類が歩んできた家の歴史の、大半なのだろう。とも思った。

そんな、忘れかけた日本人の感性を、言葉なしに伝えてくれる。そんな建築だった。


人生において、忘れられない空間体験を提供してくれる建築は多くない。

だけど、この建築は、そんな建築の一つになるのではなかろうか。


ーー


物事の本質性を問う人は、たくさんいる。

それは、篠原一男であり、安藤邦廣であり、アントニン・レーモンであり、ルイス・カーンである。藤野高志やアトリエ・ワンもそうだと思うし、それ以外の現代建築家にも存在している。

そんな人々の姿や声がどことなく聞こえる。

それでいて、設計者の柔らかい声も聞こえてくる。

良質な民家を見たときの感覚に近いものへと誘ってくる。

そんな建築だ。

物事の本質性を問う、こんな建築が街に生まれ、それと関わりを持つ人々が増えれば、

それは街に間違いなく大きな変化を与えるだろう。

願わくば、この建築が、多くの方を受け入れる存在であってほしい。

少なくとも、多くの人が、この建築家のことを知ってほしい。

そして、この建築家が、多くの方が訪れる施設の設計をする機会を持ってくれること。

そうすれば、その街は、おそらく、多感な街になるであろう。


建築のディテールについては何も語ることはしない。

それは他のみなさんがやるべきことだろう。


でも、素晴らしい建築であったことだけは、ここに残しておこうと思う。




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