大地の家。それは、物事の本質とは何かを問う、優しい建築であった。
ーー
建築家の仕事とはなんなのだろうか。
建築士の仕事はおそらく、
「施主のニーズをきちんと捉え、建築的知識で、物質化する。」
ということなのだろう。
では、建築士が上記の職能を示すものであれば、建築家とはなんなのか。
職能としての建築士は、現代社会への問も必要なければ、施主に対して新たな視点を提供する必要性もない。
でも、では、建築家は、請け仕事なのだろうか?
その答えは、当然、NOであってほしい。
既存の建築家の仕事の多くは、産業構造に組み込まれている側面が拭えない。
物質化するスキルに由来する仕事であるのは重々承知なのだが、
そうではないあり方を模索してく必要があると思う。
建築は資本との連関が強すぎるのかもしれない。
資本との連関を上手に解くと、確かに請け仕事ととしての建築設計は増えていくのだろう。
他方、人間社会に必要なものは何か、というような、
そんな大きな問いを続けている不器用な建築家に出会うと、どうしても心が踊ってしまう。
建築家とは、建築士の資格を有した人間を指す名称ではなく、
物事のあり方を問うたり、現代社会を次なるフェーズに運ぶヒントをくれる存在なのだろう。
ーー
そもそもの物質としての建築のあり方を疑い、
現代社会の建築をめぐる生産システムの新しいあり方を探し、
訪れた人々に、建築とは何かを問いただす。
そんな、小さき、それでも言葉の多い建築に出会った。
作者は西口賢。
モノの理を問いただす、やわらかい表現者であった。
ーー
大地の家は、物事の本質はどこにあるのかを、的確に、そして、丁寧に突いてくる。
・庭と家の距離は何が適切なのか
・生きる、ないしは死ぬ時、何とともにあるのが、悔いのない世界なのか
・身の回りに自然物があることとは
・四季の移ろいの隣にあるものとは
・必要なものは全てつくる
…etc
色々と書くことはできるが、どれも不十分。
でも、どれも、「心地よい」「こうありたい」にむけた言葉であることに気づく。
施主がいて設計するという関係だと、物事の快適性や本質性を問い続けることは難しい。
だから、利便性を確保する形で業務を進めることになるし、それはそれで正しい。
でも、この住宅の全てが、そうした利便性には目もくれず、本質と快適に振り切っていた点に激しく心が揺さぶられた。
長い人間生活の営みを振り返ると、それがおそらく人類が歩んできた家の歴史の、大半なのだろう。とも思った。
そんな、忘れかけた日本人の感性を、言葉なしに伝えてくれる。そんな建築だった。
人生において、忘れられない空間体験を提供してくれる建築は多くない。
だけど、この建築は、そんな建築の一つになるのではなかろうか。
ーー
物事の本質性を問う人は、たくさんいる。
それは、篠原一男であり、安藤邦廣であり、アントニン・レーモンであり、ルイス・カーンである。藤野高志やアトリエ・ワンもそうだと思うし、それ以外の現代建築家にも存在している。
そんな人々の姿や声がどことなく聞こえる。
それでいて、設計者の柔らかい声も聞こえてくる。
良質な民家を見たときの感覚に近いものへと誘ってくる。
そんな建築だ。
物事の本質性を問う、こんな建築が街に生まれ、それと関わりを持つ人々が増えれば、
それは街に間違いなく大きな変化を与えるだろう。
願わくば、この建築が、多くの方を受け入れる存在であってほしい。
少なくとも、多くの人が、この建築家のことを知ってほしい。
そして、この建築家が、多くの方が訪れる施設の設計をする機会を持ってくれること。
そうすれば、その街は、おそらく、多感な街になるであろう。
建築のディテールについては何も語ることはしない。
それは他のみなさんがやるべきことだろう。
でも、素晴らしい建築であったことだけは、ここに残しておこうと思う。


Comments