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生物建築舎について

更新日:2020年12月17日

11/16に高崎に行き、生物建築舎の作品を見学しました。

見た作品は4つ。

藤野さんは、作品のための作品を作っていないというか、作品を作ることの先の世界を見ている、すごく思慮深い建築家でした。それは、次の仕事につなげるという安易な未来でなければ、建築のプロトタイプとして波及させようというものでもない。何か建築の本質的なものを探求しているようで、すごく勉強になるとともに、とても共感しました。

僕が感じた、生物建築のすごさは以下でした。


・建築内外の境界を丁寧にデザインすること

・人にとって無理のない環境を植物/自然との関係で作ろうとしていること

・生活者が、社会や地形、自然とどのように接続されているかを示す


なぜこういった全体の感想を持ったのか、見学した個々の建築を通して紐解いていきます。


・敷島のパン屋


コンパクトで可愛らしい建築でした。この建築の特徴は、新建築の動画を見るとよくわかる。

屋根と天井の関係を再考している点がとても面白い。なるほどこれは日本建築としての佇まいでもあるのか、と理解しました。

古来より寺院建築は、遠くからの像としての建築でした。五重の塔なんかを想像するとわかりやすいのですが、あれは平家なんですよね。つまり、1階より上に重ねられた屋根や窓、欄干などは機能的にはフェイクですが、でも、見上げるという行為を誘発したり、象徴としての建築の求心性を担保するという意味では実に機能的なんです。そして、そんな機能は軒裏空間でも担保されています。建物は、ある点から屋根が見える面から軒裏が見える面に変わります。寺院建築は、組物などで軒裏を豪華にしますが、それはやはり見上げるという行為の重要性を示すものであると理解しています。

さて、長くなりましたが、敷島のパン屋で感じたこと。大きな特徴的な屋根に惹かれ建物に近づく。ある地点からは屋根が見えなくなり、上を見ると軒裏と同時に、全面開口の2階が見える。そして、その2階の奥には、同じく全面開口の窓があり空が見える。見上げると、建物ではなく空が見えるという不思議な感覚を覚える訳です。そして裏手には建物よりも強い個性を持ったシンボルツリーがある。この感覚は強烈でした。建物、空、自然の関係があべこべになっていて、それでいてとても心地よい空間。ちなみに、店舗併用住宅として作っている建築ですが、2階は住宅というより休憩・イベント室として使っているというフェイクもある。人の集まる拠り所として、勝手に寺院建築を思い浮かべて興奮していました。


・バーグドルフ映画図書館

これも衝撃でした。私的領域と公的領域への挑戦。素晴らしいの一言。大興奮。

お施主さんは市の図書館で働く公務員。公務員として働く中で、制度でがんじがらめになって自由に使えない公共空間に違和感を感じたという。公の空間を軽やかに使うことができないのであれば、私の空間を公的に使えばいい。そんなステートメントに溢れた住宅は、心おどるものでした。具体的には、友人知人が、気持ちよく映画や音楽を楽しめる場として、住宅の1階の大部分を解放している建築でした。


今の時代、国が、市が、誰かが、助けてくれるわけではないし、ルールの上で生きるのは少し息苦しい。でも、気の合う仲間と自分たちでルールを作って楽しむことはできる。街を自分で楽しくカスタマイズして行くような、そんな人が増えていったら何よりだなぁ、と常々思っています。

最近、自分がどこにいるのかをよく考えるようになりました。名古屋で賃貸住宅を借りて一人暮らしをしていると、隣の顔もわからず、子育てなどのネットワークにも加わらないため、近隣関係には一切関係がない。大学と名古屋建築界のネットワークはあるけど、それは暮らしの延長ではない。暮らしの中でどこにいるのかわからない感覚に苛まれていました。同時に、自分の住むまちくらい、楽しいまちであって欲しい、と思います。それは僕が建築をやる理由で、大学で教える理由でもあって、長野でやろうとしていることでもあるんだなぁ、と。


さて、建築的にいうと、大きな操作はしていないけど、至極丁寧に解かれていました。家の入り口と映画スペースの間にある土間が効いていて、防音とともに、何か外の世界との境界を示す存在となっていた。個々では、記憶を継承した設計、地面から空までの窓、設計管理の徹底、など、随所に学ぶべき点が見られた。

こういう、「身の回りを楽しくする家」が増えることが、面白い地域社会を作るんだなぁ、と痛感しました。


・天神山のアトリエ

念願の。ずっと行きたかった建築でした。

上部を大きなガラス窓にして、室内の地面で植物を育てる。植物にとっては少々息苦しいかもしれないけど、でも、人の生活を豊かにしてくれる存在として扱っていました。この建築を訪れると、そんな植物と空、季節の関係にフォーカスされがちですが、とても勉強になったのは、壁面の棒グラフのような窓の意味。

「地面から空まで見えると、普通の窓からは得られないような実に多くの情報を得ることができる。そしてそれが4方向にあることで、自分がどこにいるのかがよくわかる。関東平野の中、地形を感じながら生きる感じ。」

いま、自分がどこにいるのか、それがわかることって、非常に重要だと思うんです。自分が住む街について知ると、もっとよくしたいと思う可能性がある。でも、自分の住むまちがどんな街か知らないと、そんな意思が生まれる余地はない。知ることをサポートする建築、というのは、頭の中になかったので、純粋に面白いなぁ、と感じた瞬間でした。ディスカッションの中で出てきた「定位する」という言葉について、今後も考えていきたい。


・貝沢の住宅

ご実家のリノベーション。最後にちょろっと案内していただきました。

今和次郎は講義の中で、

「住宅にどこかスケールを超えた場所を作ってあげないと心許ない」

といった趣旨の発言をよくしていたと聞きます。

篠原一男は、民家の土間空間と天井までの開放的な空間への憧れを語っています。

この住宅も、床を抜き天井に窓をつけることで、どこか人のスケールを超えた場所を設け、そことの関係で室内空間が丁寧に構成されていました。お見事、という感想。

うーむ、どこか小さな操作に終始してしまっている長野の自邸、どうにかしないとなぁ、と、考えさせられました。


あと、ディスカッションの中で、

雑誌に掲載されるまでのスタディ集には圧倒され、

文章を発表する際に信頼できる建築家に見てもらってブラッシュアップする話なども、勉強になりました。

一人でやるのではなく、事務所だけでやるのでもなく、仲間内で進む。

そんな姿勢は、作品でも、事務所運営でも見られるようで、

他の人と話す、意見を聞く、ということの重要性を痛感しました。


いやはや、学びの多い時間でした。

11/24にはお越しいただきレクチャーがあります。そちらも楽しみです。

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毎年、新年になると書く、現在地の確認。 そして、昨年を思い返す。 名古屋に来てから定期的に書くようになったから、もう6年目。 2016年は「地域の自助・共助・公助」 2019年は「建築文化」 2020年は「リサーチング・プレーヤー」 2021年は「楽しいが身の回りにあること」 2022年は「生活民芸舎」 2023年は「むきあう」 2024年は「暮らしをつくる」 ーー 2023年は、プロジェクトが

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